人狼伝 鼻の頭の辺りを蝿や羽虫が喧しく羽音を立てて飛び交い、時折鼻腔に飛び込んでくる。最初のうちは律儀に鼻から息を吹いて出していたが、今やもうその気力さえない。先ほどから脇腹をもぞもぞと上るのは何の虫だろうか。毛虫の類であれば、毒を持っているかもしれない。その毒針を一思いに柔肉に突き立ててくれることを先ほどから期待しているというのに、鋭い痛みもなければ意識が霞むこともない。 数メートル先には淀んだ池が滾々と湧き出ており、泥の匂いを辺りに充満させている。喉が酷く渇いているが、二度とあの水辺に立つ度胸はなかった。思い返して、望は唇を震わせる。いや、唇などない。覚えのなかった筈の鋭く長い八重歯が震えに連動して歯茎に軽く刺さる。口内は血の味が堪らなく煮え滾っていて、やり場のない舌を丸める。いっそのこと舌を噛み切ろうかと思うのに、度胸のない自分は怖くてそれができない。 薄く瞼を開き、投げ出された両手を見遣って、嗚呼と絶望の一声を吠える。 灰褐色の毛をまとうそれは、太い骨格と硬く分厚い筋肉で構成され、指先には黒い肉球と拳を作るだけで手の平を傷つけてしまいそうな鋭い爪が生えていた。少なくとも人間の腕ではない。 そうだ、今更何に縋っている。 どうしようもないほどに獣の姿をしているのを、水鏡に映して認めただろう。 お前は最早、人間ではない。 最初は夢だったのだ。 見覚えのあるようなないような、前後左右どこもかしこも木々に溢れた中で、望は只管土を踏みしめながら駆けていた。酷く爽快で、信じられない程の速度であった。身体が宙に浮いている心地がして、望は我を忘れて駆けた。こんなに晴れやかな気分になるのは、生まれて以来かもしれない。特に最近は鬱に陥ることが多かった。その反動だろうか。 疲れたわけではないが、あまりに飛ばしすぎるのも良くないと思って立ち止まったのは、木々が一瞬だけ途切れた空の仰げる場所である。植物の青苦い匂いが鼻腔の奥に落ちて、思わずくしゃみをする。咄嗟に口元に手をやり、望は違和をやっと感じた。 口元に毛が生えている。 望はひげを伸ばしてはいないし、第一ひげの感触ではない。毛皮のようにふさふさと深く、一夜で伸びる筈のない長さである。 同時に、手の当てた口も違和を感じた。指の感触はないのに、毛ばかりが当たるのだ。視線を下げて己の手を見遣った望はそこで初めて獣の手に気付いて悲鳴を上げ、悲鳴ではなく太い咆哮を上げた己の喉に心臓を縮まらせた。 後はもう、破れかぶれに走り回り、たまたま見つけた池に姿を映して、自分がいよいよ醜い獣に転じていることを認める他なくなってしまった。木々の緑に身を沈めるようにして蹲り、昼も夜も分からないままに過ごしてきた。もう何日経ったのか分からない。 空腹も乾きも感じるが、動こうとは思えなかった。飢えた自分が移る行動というものが容易に想像できるのが恐ろしかった。この森には鳥や小動物が多く住まう。今の自分を人間だと言い張るつもりは毛頭ないが、捕食をするようになれば、とうとう自分は人間でなくなってしまうに違いなかった。 空腹と乾きは、獣になってしまった運命を呪うのと同等に重く望に圧し掛かってきた。望はそれを忘れるがために目を閉じる。太い腕で顔を覆い隠し、すんすんと鼻を鳴らしながら意識を落とそうと努力する。 人間であろうと思うが故に記憶を手繰るのに、望は人間であったときの記憶が恐ろしく希薄であることに気付いて絶望した。 家はそこそこ厳しかった。上に二人か三人兄がいたように思う。血縁の少年と暮らしていた気がするが、どうしても弟のいた記憶や結婚した記憶や誰かを孕ませた記憶が見つからないので、彼は甥か何かだろう。妹はいた。いたことは覚えている。名前は今ひとつ思い出せない。 それから、高校で教師をしていた。教壇に立つことを憂鬱に思う日々であった。大丈夫だ、そこはちゃんと覚えている。では、そこで何をしていた? どんな生徒を持っていた? 顔も名前も酷く薄ぼんやりとしている。思い出せ、思い出せ。 気付いたら後ろにいる少女がいた。委員長のように何事も取り仕切る少女がいた。不法入国をしたに違いない少女がいた。帰国子女の激しい少女がいた。包帯にまみれた少女がいた。携帯電話ばかりいじっている少女がいた。学校に引きこもっている少女がいた。二次元に命をかけている少女がいた。普通であることが奇異に見られる少女がいた。驚くほど腰の低い少女がいた。ネットアイドルもいれば女子高生にして主婦をしている少女もいた。 そして、あの桜舞い散る日に、絶望のあまり首を吊って――。 「みぃつけた」 場違いに明るい声がして、望は瞼を開く。腕で覆っているので、目を開けても暗闇だけだ。さくり、と、落ち葉と土を踏む湿った音がして、何かが着実に自分に近付いて来ている。それは声の主に違いない。 望は恐れた。醜悪な姿を見られることに激しい抵抗が心に芽生え、巨躯を縮めて丸まろうと努力する。しかし、所詮無駄である。手首の辺りをぺたんと叩かれた。喉から声が漏れる。獣の野太い嫌な声。 高くて耳に触りの良い声が、明瞭な発音で言葉を紡いだ。 「先生、しっかりして下さい、怯えないで下さい、顔を上げて下さい、私の顔を見て下さい。先生、私の声は届いていますか? 私の言葉、分かりますか?」 届いている。分かる。だが、後生だから顔を見ないでくれ。そう伝えたいのに、人としての言葉は一つも出なかった。 耳に、ふ、と生温い息が当たった。声の主が至近距離でしゃがみこんでいるらしかった。 「先生、私の顔を見て下さい、私の言葉が分かるなら、私の顔を見て下さい」 だから、それが嫌なんだ。望は呻く。 「見てくれないなら、あなたは私の求める先生じゃありませんから、保健所に電話して捕獲して貰います。いいですか?」 保健所。その言葉の響きに望は戦慄した。最早自分はそのような存在なのだ。保健所に、捕らえられるような。 ここで顔を晒すのと、保健所に入れられるのと、どちらが良いか。 望の手首に置かれた冷たい手が、望の重い腕を緩慢に脇に避ける。恐怖が先駆けた。顔が強張る。見られてしまう。 「先生、覚えていますか? 私です、私ですよ」 ああ、この声。ずっと聞き覚えがあると思っていた。桜の匂いの充満する空気に、全てを絶望した自分は見慣れた紐を丸く輪に縛って首を通した。死のうと思っていたのに、首が絞まった途端に生にしがみ付いてしまった。振り返ったときにそこに立っていた少女。 完全に腕を外してしまい、最早晒された顔を上げた先にいる少女の笑顔と、記憶の少女の笑顔がぴったりと重なる。いつもこの顔なのだ。何も変わらない。 一つ違うのは、彼女の大きな瞳に移りこんだ自分の姿。 彼女は、自分をこう呼んだ。 「さあ、桃色係長」 「先生が最後に教壇に立ってから既に一週間経っています。先生が失踪してからは、交くんと霧ちゃんとまといちゃんの証言より、恐らく五日です。さしものまといちゃんも追跡しきれなかったみたいです。先生は今現在消息不明なんですよ」 何が楽しいのか分からない笑顔が張り付いたままの顔で、風浦可符香は言う。 「そろそろ千里ちゃんが怒り始めたし、代わりで来ていた智恵先生も嫌になってきたみたいなので、探しに来ました」 可符香が手を伸ばしてくる。望の鼻先を緩く撫でながら、さらに続ける。 「先生はね、今、狼の姿をしているんです。先生の心の狼です。先生の心には常に臆病な獣が住まっていました。先生はそれを抑えられなかったんです。先生は嫌なことから逃げて逃げて逃げて逃げて、最終的に人間をやめることで、世の中の絶望から逃げ出したんです」 可符香の手は、鼻先からするりと滑って口の横を通り過ぎ、首元へと潜り込んだ。こそばゆく、久方ぶりの生き物の感触が心地良かった。人間の手とは、これ程にも細かったか。 「先生、楽でしょう。人間のしがらみから逃れられて、楽でしょう。獣に身を委ねるのは楽です。あれこれ考えずに、本能に従うのは酷く楽ですよね」 耳にしっかりと届くその声は、暗示的である。望が怯えたように軽く顎を上げると、可符香はもう片方の手も伸ばして、望の額の一際長い毛を梳いた。 「先生、私が聞くのは一つだけです」 優しく、冷たい手。自分は人間であったとき、この手に何度触れただろうか。全く触れなかった気がする。 少女の赤い唇が、赤く艶めいた。 「先生、人間に戻りたいですか」 望は縋るように可符香を見上げた。可符香は微笑んだように見えた。初めから笑っているのだから、細かい表情などよく分からないが。 具体的な言葉にされて、やっと望は悟る。自分が人間に戻ることを諦めていたことと、人間に戻りたいという願望を持つことを。 元のものよりもずっと大きく裂けた口を開き、望は必死に息を吐き出した。喉を震わせて言葉として紡ごうと思うのに、人間としての言葉がどうしても出せない。悔しくて焦れる。やはりもう人間に戻れないのかもしれない。 「苦しいですよ。また憂鬱に苛まれる日々が始まりますよ。このまま、ここで静かに人間としての記憶と自我を失っていけば、悶々とする日々を過ごすことがなくなるんですよ。それでも、人間がいいんですか?」 可符香が問う。言葉の一つ一つが畳み掛けるように望を襲う。腹の虫が鳴った。俄かに視界が潤む。どうしようもなく腹が減っているのだ。そして、目の前には恰好の餌があるのだ。 「先生、何も食べていなかったんですね、可哀そうに」 ちっとも哀れんでいるようではない口調で、可符香が呟いた。 首筋の白さも、細いのに柔らかそうな手足も、全てが毒である。これ以上この距離にこの少女を置いてはいけない。自分は人間に戻るのだ。 望は身体を起こす。数日振りに立ち上がると、改めて巨躯の重さが腕に沁みた。背に降り積もった葉を振るい落とし、望はそっと可符香から距離を取る。 「美女と野獣だったら、ここで私が先生に口付けをすれば戻るんでしょうけど、生憎先生は魔法にかかったわけじゃないですからね」 可符香は心得ているのか、望が離れた分を埋め合わせることもなく、その場で静かに立ち上がった。 「さあ、先生、ついてきて下さい。人間の世界に戻りましょう」 唐突さを以って、可符香が踵を返して駆け出す。駆け出すと言っても歩き難い森の中、たどたどしく遅い足取りである。よく見れば、制服のあちこちが破れているし、泥や葉にまみれていた。可符香は、この森の中、望を求めてどれほど歩き回ったのだろうか。 戻らなければならない。自分は、戻らなければならない。 望はセーラー服の背中が不安定にゆらゆらと揺れ動くのを目で追いながら、最後の一声を吠え上げた。 |