秘密を覗き見してしまった。


まぼろしのひとごろし


窓枠の影が爬虫類のように廊下に這っている。見慣れている景色である程嫌悪感を催すもので、糸色望は廊下の入り口で深く溜息をついた。毎朝ここから廊下を眺めるたびに憂鬱になり、絶望する。何故これからあの支離滅裂な生徒で満たされたクラスに行かなければならないのか、何故自分は教師資格など取ってしまったのか、何故自分は大人になってしまったのか、そもそも何故自分は生まれてきたのか、一日の九割をその思考に費やしているわけだが、この規則的に並ぶ窓枠の影の不気味さにより一層絶望してしまうのだ。ああ、絶望した。
正直に心中を明かせば、こんなところを一日に何度も通りたくなどない。しかし窓枠の影の爬虫類以外の場所が夕日の朱色で埋め尽くされている今に通らねばならない理由を作ったのは、紛れもない自分である。絶望した。
出席簿を忘れた。初歩的且つ馬鹿なミスをする自分に絶望した。
どんなにおかしなクラスであろうとも、入れ替えの激しいクラスであろうとも、出欠をつけて学校側に提出しなければならない。怠りが続いて校長に睨まれ教育委員会に話が行けば、職を追われてしまう。そうすれば食べていくこともできず家もなくし、路頭に迷い乞食に身を窶して自販機の下の小銭を掴み取ることに心血を注ぐようになるに違いない。住みにくい社会に絶望した。
そうこう考えているうちに、望の足はどんどん影の爬虫類を踏み潰して「二のへ」と書かれた札の下がった教室の扉の前まで来ていた。教室に誰もおらずとも、他のクラスより異様な空気を感じる。このクラスは、あの異質で狂気じみた生徒達の吐いた息と染み込ませた血で充満している。つくづく思う。このクラスが嫌いだ。絶望した。
手をかけてドアをがらりと引き、望は真っ直ぐ教卓へ向かった。夕日に無数の埃が舞い、きめ細かに光を弾いている。教卓を片手でごそごそとまさぐって要らないプリント類を掻き分けながら、コーヒーを零したせいで機能をなしていない黒い出席簿を探しつつ望は教室を見遣って、息を呑んだ。これは失態だ。絶望した。
長い身体を緩やかに折り曲げて机に突っ伏し、横顔を見せて寝息を立てている者の存在に、今まで気付けなかった自分に絶望した。
制服以外に白い部分が大分多いその生徒の名を、小節あびると言う。クラスの中では比較的背が高く普段の言動は一見常識人だが、彼女の異常性を望はよく知っている。ああそうなのだ、このクラスにただの常識人などいる筈がない。皆異常である。絶望した。
あびるは右の頬を机に押し付けてすうすうと寝息を立てていた。結われた三つ編みは弛んで緩み、解けかかって散らばっている。整った顔立ちを際立たせる夕日の影は廊下のそれと変わらず不気味で、望は思わず息を呑んで肩を竦ませる。生徒の影にさえ怯える自分に絶望した。
「……小節、さん?」
恐る恐る名を読んでみた。とっくに下校時刻は過ぎている。あの学校に引きこもっている少女ではあるまいし、起こして猟奇的な趣味で氾濫している家に帰さなくてはならない。何よりものを言わぬ少女とこの教室で二人きりになることが怖い。臆病な自分に絶望した。
あびるはぴくりとも動かない。望は机の側まで歩み寄る。もう一度名を呼びながら肩に手を触れようとして、咄嗟に伸ばしかけた手が止まった。息を呑んだきり肺が固まって吐き出せず、苦しさに声にならない悲鳴を上げる。思わず自分の運命を呪い、絶望した。
眼帯に覆われている筈の左目が露出し、薄く開いていたのだ。
網膜移植をしたか何か、というのは耳にしたことがある。何でも幻像を見るから普段から眼帯で覆っているのだとか。真偽はともかくとして、そのあびるの左目の瞼がほんの少しだけ開いていた。瞳の形も取れぬほどの小さな隙間だが、確かに開いている。眠っているうちに眼帯が外れて、普段使わないために緩んだ瞼が中途半端に開いてしまったのだろうか。眼帯は鼻の辺りに絡まって引っ掛かっている。どのような理由にせよ、つくづく間の悪い自分に絶望した。
「あなたなのね、わたしをころしたのは」
唐突にあびるが呟いた。望はひっと喉の奥で声を引き攣らせ、あびるから数歩退いて机にぶつかる。がたん、と音を立つ音にすら怯えた肩が跳ねる。それでもそれ以上を起こさなかったのは、あびるが依然眠っている様子であったからである。眠ったまま物騒な寝言を囁くなど、尋常ではない。このような生徒を持ってしまったことに絶望した。
「ふふふ、あなたなの、ふふふ」
あびるが腹を抱えこむように含み笑いをする。ひたすら不気味であった。悪鬼が憑いているようにしか見えない。あびるの腹の底から、悪鬼がげたげたと下卑た声を上げて、望の耳を、頭を、どこもかしこも万遍なく苛む。反射的に生かしたままにしておけないと思い、望は震える指をあびるの首元に伸ばす。仮にも自分の生徒であるのに、全く躊躇もしない自分に絶望した。
細い首筋をゆっくりと望の指は這い、小さな喉仏を探った。まるで死人のようにさえ感じられるが、あびるとて生きてはいるらしく、大動脈の幽かなうねりが手の平を押した。首筋は生温く、爬虫類のようである。親指に力が入ろうというとき、あびるの左目が大きく開いた。
「せんせいなのね、わたしをころしたのは」
光を灯さない深い瞳の中には、背景も何もなく、ただ望の青白い顔がぽっかりと浮かんでいる。右目は前髪と陰とでよく見えない。ずれた眼帯が生き物のような動きであびるの顔から滑り落ちた。歯が噛み合わない。咄嗟に首を絞めかけていた手を引き抜く。自分は何をしようとしていたか。人殺し。あびるの左目に嵌め込まれた誰かの網膜、或いはあびる自身が、望を殺人者と見なした。そうなのだ。自分は人殺しに違いない。絶望した。
望は悲鳴を上げることすらままならずに後ずさりをし、砕けて尻餅を突く腰を床に擦りつけてなおあびるから距離を取る。あびるはそれ以来口を開かない。見上げる角度からの肩は痩せて、いかにも頼りない。しかし、それがまた恐ろしい。望は今更ながら、このような場面に行き逢ってしまった自分に絶望した。
淀んだ夕日の渦巻く中で、望は動けないままに絶望した。
ようやく落ち着いて感覚の戻った足を踏ん張り、望は立ち上がる。何をしに教室までわざわざ来たのか、最早覚えていなかった。ただ、この魔境から逃げ出すためだけに望は走った。開け放された入り口を抜け、廊下の爬虫類を踏み躙り、足をもつれさせながら階段を下り、絶望してばかりであることに、絶望した。


程なくして、あびるは目を覚ます。
しんと暗く降りた闇が、教室を包み込み、教卓も机も椅子も黒く沈み込んでいる。あまりよく見えない。寝過ごしたらしいというのは何となく分かった。
帰らねば、と立ち上がり、ふとあびるは闇にぼうっと白く浮かぶものに気付く。
「先生……?」
足を持たず、輪郭もあやふやで、崩れたり戻ったり忙しない。久しぶりに見る幻像である。眼帯で覆って封印した筈だが、咄嗟に瞼に当てた指はあるべき眼帯を見つけずに肌を撫でるばかりで、どうやらいつの間にか外れてしまったらしかった。
よく分からない幻像は、彼女の担任教師に見えた。世の全てを諦めた顔で、呆然と揺らいでいる。不規則に広がる着物と袴の模様が派手である所以についてあびるは首を傾げ、目をよく凝らした。彼は実家周辺ならばともかく、普段から地味な格好ばかりをしていた筈である。
やがて、それが何であるのか悟ったあびるは、小さく口元を歪めて、笑った。
「なるほど……ひとごろし」
囁く声を聴く者は、彼女の左目の中の蒼褪めた青年のみである。


幾人もの返り血が、絶望の如く糸色望の全身にまとわりついて深く染み込んでいた。







普通の恋愛するあび望がどうしても思いつけません先生。
望先生の視点は絶望した入れるので精一杯でした。
暖め続けたわりにあまり消化率の宜しくないお話でした。
08/06/30