あと1cm 「何、それ、どこのデータ?」 声変わりをし終えたばかりの低く出された声が即頭部のすぐ側を震わせて、耳の後ろの産毛がぞわりと立ち上がった。一度起こった震えは瞬時に身体中に伝染していき、指先の痙攣を抑えてから振り返るまでに、実に三秒もかかった。 と、振り返るまでもなく、阿部隆也は放課後のがらんとした教室の千代の座っている机に回りこんできて、千代の手元に広げられた対戦データを勝手に吟味し始める。目を眇めて一通り読んでいる阿部の思わぬ近さに、千代は身を引いた。さっと見て、さっと去ってくれないか。儚い望みは、いつまで経っても顔を上げず嘗め回すようにデータを見つめる阿部を見れば即座に潰えたも同然で、仕方なく千代は握っていたボールペンを机の上に転がした。 少年のしっかりとした骨格の肩が鼻先に突き出される。机に突いている手の平の大きさと色の黒さに、毎日の練習の軌跡を感じる。マネジ仕事故に人よりも日焼けをしているつもりだったが、本当にずっと日を浴びて汗をかいている人間にはかなわないのだ。ただし今日はグラウンドの状態故のミーティングだけの筈で、どうやら終わったようだ。データをまとめられたら少し顔を出そうと思っていたが、できなかった。少し悔しい。 「これって、どこの高校のデータ? 次の高校じゃねーよな」 やっとのことで阿部が顔を上げる。と言っても顔を上げただけでこちらをちらりとも見ずに、彼にとっても千代にとっても貴重な薄い紙ペらに目線を落として、阿部は問いかけてきた。 「えっとね、さらにその次の高校のだよ。あっ、練習試合は一年生しか出さないから、露出してる選手のはこの印がついている人だけだけど」 言って、資料を指で示す。一年生でレギュラーはやはり珍しく、赤のチェックペンで印が入れてあるのはごく僅かだった。西浦高校は異例だが、高校に入ってすぐに試合に出られる一年生はやはり普通は少ないのだ。中学まで遡ればベンチ入り程度の選手のデータは見つかるかもしれないが、残念ながらそこまで手を伸ばせないのが現状だ。 「ふーん……おっ、ショートが一年か」 机に肘をついて、阿部は中腰になった。相変わらずデータばかり見つめている。千代に声をかけてきた癖に、一度も千代を見ていない。千代は、ぶつぶつと今からも攻略を練り始めている黒い短髪が揺れるのを何となく眼で追う。 自意識過剰かもしれないけど、どうしても思ってしまう。 凄く、今までになく、近い。 もう少し近づけば、相手の息遣いが分かる。あと一センチ、さり気なく腕を動かせば、さり気ない位置に、さり気なく手が触れる。 阿部に、触れる。 動かそうか動かすまいか。 無意識に千代の頭はその二択を真剣に吟味しており、少しくらい動かそうが手がぶつかろうが阿部は気にしないという考えと、触れたら阿部は遠慮して手を引っ込めるのではないかという考えが、互いの面積を取り合って鬩ぎ合っていた。目の前には健康的に焼けた肌と、少しよれた制服。中途半端に短い髪を、千代に向いてない方の手ががりがりと引っ掻く。鼻先を掠める少年の匂いは自分の中のどこにも見つけられないもので、自然と鼓動が早くなった。 「なあ、これさ、チェックがついてないけど、この選手って――」 阿部が急に千代の顔を窺うようにしてこちらを振り向いたものだから、阿部に見惚れていた千代は驚いて反射的に手を引っ込めた。その反動で腕と腕がぶつかり、完全に引っ込める前に千代は動けなくなってしまった。阿部が驚いたように身じろぎする。しかし、千代のように身を引くことはない。 近い。これは本当に近い。 顔と顔が近い。 眩暈がする。 一瞬だけ気まずい間が二人の間に流れ、ゆらゆらと揺れていた千代の視線と虚を突かれた阿部の視線が一直線に絡まった。何かを言いかけていた阿部が口を噤み、触れていた腕をずらした。幽かな動きにも摩擦が生じたように熱くなって、千代は動けなくなった。 余計な照明の落とされていた教室は少し薄暗く思え、昨夜から続く雨が引いた嫌な曇天のせいでさらに暗く見える。阿部の顔はその灰色に溶け込み、しかし生を感じさせる輪郭を持って毅然とした存在感を表していた。驚きに見開かれていた瞳がいつもの垂れ目よりもさらに薄くなるほどに瞼が下がり、咄嗟に噤まれた口元からは引き結ばれた固さが消えた。 酷く緩慢な動作で腕と腕が擦れ、阿部の手の平が千代の手の甲に近づいてきた。あともう少し動いたら、阿部は手を引っ込めるか、それとも、 ――握られるか。 ぴたり、と腕が止まり、阿部はわざとらしく顔を大仰に背けた。自然な動作で腕が離れていき、熱は生じた速さを持ってして急速に収まっていく。 「……ワリィ。今の、気にしないでくれ」 背けて見えない表情が、掠れた声に乗って千代の耳に届く。その言葉を皮切りに金縛りが解け、千代は慌ててがたがたとやはりわざとらしく音を鳴らして椅子を引き、座り直す。 「う、ううん! ちょっとびっくりしただけだから!」 無理して捻り出した声は妙に甲高くて気持ち悪かった。彼の前だと自分は失態が多いような気がして、千代は頭を抱えたくなる。阿部の顔が見られない。元より彼はこちらを向いてくれない。 「じゃ、頑張れよ」 阿部が立ち去る気配がする。教室のドアから出て行く背中に「うん」と頷いてから、別れの挨拶を言ってないことに気付き、小さく「じゃあね」と言う。顔を上げると既に足音は廊下の遠くにいて、結局声が聞こえたのかどうかは不明だった。 気を取り直してデータ分析にかかるが、耳元に残る声をかけられたときの痺れや腕の触れていた部分に残る熱の名残ばかりが気になって、なかなか作業が進まない。先ほどまではスムーズに頭にするすると溶け込んでいた名しか分からない選手の特徴も、どんどんと頭から抜け落ちているようである。 あーもう、阿部くんの馬鹿! 心中で叫んで背中を逸らし、時計を仰ぎ見てその時刻に驚く。確かに教室が暗いとは思っていたが、帰ろうと思っていた時間を軽く三十分も過ぎていた。時が流れるのが早く感じるのは死期が迫っている兆し、とどこかで聞いた碌でもない胡散臭い言葉を思い出す。 とりあえずもう帰らなくてはいけない。親に申告しておいた時間をずっと過ぎていては心配させてしまうだろう。がちゃがちゃと鞄に筆記用具やデータを突っ込み、電気を消して教室を出る。当たり前だが、廊下には誰の姿もない。 ――ついさっき、阿部くんがここを通った。 柄にもなくそんなことを思って、一人で恥じ入る。今日の自分は少しおかしい。それもこれも阿部のせいだ。阿部は何もしていないが、阿部のせいにでもしないと気が狂いそうである。 あーもう、阿部くんの馬鹿! 千代は心中で本日二度目の暴言を吐き、薄暗い廊下をぺたぺた歩んで帰路を急いだ。 今日は練習がなかった。グラウンドが使える状態でなかったのだ。天気も、昨日の雨に引き続いて今にも降り出しそうなので、軽いミーティングだけで終わった。毎日身体を動かしているせいか、物足りない気がした。空腹感に似ている。 ミーティングの最中、監督の隣が妙に涼しかった。いつもそこにいるあいつが今日はいない。その違和感をまず指摘したのは田島で、その問いに答えたのは監督ではなく花井である。 「篠岡は教室で相手校の対戦データまとめてるよ。感謝しとけ、アレ大変なんだからな」 大変なのは、皆知っている。データを見れば一目瞭然だ。 別に、篠岡が気になったのではない。どこのデータをまとめているのか気になっただけなのだ。次の練習試合の相手のデータは既に出来上がっている。この上何をしているのだろう。まだ足りない部分があったのかもしれない。それは、キャッチャーとして、投球を組み立てる者として、早めに知っておきたい。 そうだ、データが気になるんだ。そう自分に言い聞かせて、ミーティング後に「ちょっと用事あるから、先帰ってていい」と他の部員に言い置いて教室を覗きに行けば、案の定見慣れた背中が少し丸まって、ボールペンが懸命に紙の上を走っていた。 声をかけて、近づいて、予定通りにデータを見て、それから、 篠岡の腕に、触れた。 何てことないすべすべしたただの女の手で、マネジ仕事故か薄くついた筋肉の弾力が返ってきた。 けれど、それ以上に、間近に絡む目線に心臓が跳ね上がった。篠岡はともすれば間抜けとも言える顔で目尻を薄っすらと染めて見上げてきていた。放課後の誰もいない教室だったことも悪かった。周りに誰かいれば、誤解されるからと振りほどくことができたけど、誰もいないのだ。誰も、この普段とは違う空気を、おかしいと指摘してくれないのだ。 腕が勝手に動いて、篠岡の小さな手を握ろうとした。篠岡は石像のように微動だにしなかった。拒否を示す硬直か、受け入れに備えた硬直か、どちらかは分からない。あるいは、篠岡もどちらなのか分からなかったのかもしれない。 すんでのところで正気に戻り、慌てて顔を逸らした。適当なことを言って逃げ出した。結局篠岡の顔は見ていない。さぞ訝っただろう。明日顔を合わせられない。 生温い曇天の風が額を撫で擦る。阿部は目を細めて、腕に生じた熱を思い起こす。 あと一センチ近づいて、篠岡の手を握って、 ――そしたら、オレ、何してたんだろうな。 |