酷く息が荒れている。喉はからからに渇いていた。自分がいかに危険な状態かを、阿部は薄っすらと自覚する。 唇を噛み締め、背を屈ませて篠岡の顔に自分の顔を近づけた。篠岡は呆気に取られていた。予想外だという表情がどうにも悔しい。そのように考える自分が恐ろしい。 「……あべ、くん?」 暗がりの中でもはっきりと見える形の良い唇が、そっと問いかけた。 境目 どれほど日が長くなろうと、埼玉の八時以降はいつでも立派な夜である。練習上がりにベンチの辺りに集うときはそれでも辛うじて空の明るさが残っているが、篠岡の握るおにぎりを頬張っている間に空は素早く黒檀に染め上げられる。 ましてや、人通りのない校舎の脇だ。手近な電灯とは優に十メートルほど離れており、阿部と篠岡のいる壁際は完全に闇に沈み込んでいる。闇に慣れた瞳でも多少辛く思う。 「阿部くん? どうしたの?」 もう一度、今度ははっきりと発音して、篠岡が囁いた。呆気に取られた表情がだんだんと硬くなっていく様子は暗くてもよく分かる。汗で額に張り付く前髪が透けて、寄せられた眉根まで見えた。 「……しのおか」 問いに答えない呼びかけをする自分の声は、思った以上に掠れていた。どこまでも息苦しい。壁に突いた腕と腕の間に閉じ込めた小柄な少女は、しかし、足を張って堂々と立っている。表情は硬いものの、恐怖は見えなかった。それが、篠岡千代という少女の強さを表しているのかもしれなかった。 何故こうなったのか分からない。教室に忘れ物を取りに行こうとして、途中で篠岡を見つけただけだ。それがどうしてこうなっているのだろうか。自分の堪え性の無さを嘆きたくなった。 いや、最早限界だったのだ。 好きだなどと言ったことは一度もないが、それでも時間を重ねるごとに少しずつ気まずくなっていくほど篠岡との関係が進んでしまったのは、紛れも無い事実だ。他の部員にも薄々感付かれていることを、篠岡自身が気付いていないわけがなかった。微妙な関係なだけにからかいの種にされることはなかったが、何かの拍子にその手の話が出ればお互いに口を噤んでしまうほどに戻れなくなっている。 それでも、釈然とせずにのらりくらりと逃げる篠岡に苛立っていたのかもしれない。 遠くでは無邪気な笑い声が聞こえる。楽しげな話し声も聞こえる。まだ皆着替えてもいないのだろう。忘れ物をとりに行った筈の阿部のことなど、とうに忘れているに違いない。 「あのさ、オレ、」 息を整えようと、阿部は深呼吸をする。篠岡は相変わらず硬い表情だったが、阿部よりもずっと落ち着いていた。呼吸の乱れもなく、緊張の震えも見せない。僅かに入ってくる光を髪の一片に反射させながら、篠岡は毅然と立ち続けている。 ああ、少しは動揺してくれ。こうしてしまった自分自身にさえオレは動揺を隠せないのに、何でお前はそんなに平然としているんだ。 壁に突いた手の平を握り締めると、生温い汗が掴めた。 「篠岡のこと、ずっと、」 「待って」 今までになく、鋭く篠岡の声が割り込んだ。とても壁際に追い詰められた少女のものではない強い声音は、未だに震えを隠すことさえできない阿部の掠れ声をいとも簡単に潰す。 篠岡の白い指が伸びてきた。細くて小さな指が屈んだ阿部の鎖骨の辺りを押す。艶かしい感触に阿部は身体がぞくりと反応するのを感じた。 「言わないで、その先は、」 篠岡の顔は最早変えようもなく決意が固まっていた。睫毛の乗った瞼が緩く瞬いて、上目遣いでも細目でもなく、しっかりと阿部を捉えて睨む。 「知ってる。知ってるから、でも、言っちゃ駄目」 篠岡の両手が、阿部の肩を少し強く押した。それくらいではびくともしない筈が、阿部は簡単に押されて篠岡から一歩離れた。空いた二人の間に夜のねっとりとした風が緩く入り込んでくる。 「何で……」 思わず問う。それが、果たして阿部の言葉を遮る理由を問うものなのか、はたまた自分がよろめいてしまったことに対する問いなのか、阿部自身もよく理解できなかった。 闇に半ば沈んだ篠岡は、どうしようもなく自分よりも強い存在に見えた。上から屈んで両腕で閉じ込めたくらいでは到底手に入れられそうにもない。そもそも、手に入れようという考えそのものが間違いである。 篠岡は俯かずに小さく呟いた。 「怖いから」 窄めた唇からそっと吐く息も、今の阿部には毒だった。 それまで保ってきた無難な関係を、今流れるままに崩してはいけない。 ここで無理に押して進めるか、素直に引き下がるか。力の強さで言えば決定権は阿部にある筈なのに、どうにも篠岡には勝てない気がした。篠岡の全身は、阿部の望む展開を頑なに拒もうと気を張っている。 だが、垣間見える弱さの溜息は、篠岡自身の揺れでもあった。 二人はまさに境目にいる。 |