耳の奥底に鮮明に蘇る明るい声音。
――三橋くん、今日誕生日でしょ。
その言葉が耳から外に洩れ出る気がして、そっと耳たぶを摘んでから冷え切った耳朶をきゅっと覆う。
――誕生日オメデトオ!
目を閉じて、唇を噛む。呼吸を止めて脳裏をまさぐり、咄嗟に網膜に焼き付けたその一瞬を、その場面を、瞼の裏側に浮かべる。
オレだけの、記憶。


伝わらない


椅子の上に正座なんて滅多にしないけど、今のオレは酷くかしこまって足を折り畳み、机の上の小さなキャラクターものの妙に可愛らしいメモ用紙に向かっていた。そもそも机を使うのが珍しい。オレは家ではあまり勉強しないし、机を使ってすることなど一つもないのだ。
ペンを持つ手が迷うように揺れて、空中に見えない文字を連ねる。こんなことを話したいと思うことは一杯あるけど、オレはそれをきちんと文章にできない。否、言葉にすらできない。人が人にものを伝えるにあたって最も重要且つ単純な手段、言語の発声によるコミュニケーション。それがオレには欠如している。自分のことだから、よく分かる。
普通の会話をしているときだって、オレは口でものをきちんと伝えられない。中には田島くんのように、曖昧なジェスチャーとアピールだけで全てを理解してくれる人もいるけど、残念なことにそのような超人は、オレの周りでは田島くんだけなのだ。
けど、口で上手く言えなくても、このメモにさえ書けば伝わる。そう信じて、オレは目線を脇へとずらす。
メモ用紙の側に転がしてあるシンプルなデザインの袋。迷った挙句に小粒の飴玉の詰め合わせを選んだ。雑貨をあげても喜んで貰える自信がなかったから、無難なお菓子の中でもさらに無難な飴を買ったのだ。きれいな色をしていて、これなら失敗はないだろうと思った。オレはそれをそっと撫でて気を紛らわし、シャーペンを握り直す。
深呼吸をして、オレは慎重に書き出しの位置を決める。右に寄ったり左に寄ったり上が余ったり下が余ったり、そういうことが起こらないように、オレは頑張って空白を数える。今更見栄を張っても仕方ないけど、せめて読みやすい字にはしたい。
一文字目は、何がいいだろうか。お誕生日、おめでとう。ありきたりだが、他に言いようがない。しかしそれではスペースが多く余ってしまう。何か考えなければ。
そうだ。宛名だ。名前から書こう。手紙の冒頭の基本だ。
オレは目を閉じて、頭に書く言葉を思い浮かべる。
篠岡さんへ。お誕生日おめでとう。
覚悟を決めて再確認して目を開き、シャーペンの先をメモ用紙に軽く当てていざ書こうとして、
「……し、」
気付いた。
「篠岡」の「篠」って漢字が分からないということに。


オレは好きな女の子の名前さえもまともに書けないバカなのだ。


三月二十五日が篠岡さんの誕生日であることを知ったのは、阿部くんの口からだった。
阿部くんと会話をしていて聞いたのではなく、野球部の皆と阿部くんとの会話からたまたま拾っただけである。
練習終了後の更衣室の中で、どの月生まれが一番多いかという他愛もない話題でお互いに誕生日を数えながら笑っていたとき、不意に田島くんが声を上げた。
「なーなー、そう言えばしのーかっていつなんだろ?」
言って、花井くんに目を向ける。いかにもこういうことを知っていそうだと判断したのだと思う。オレも、花井くんなら知っていそうだと思った。
「オレは知らねーな」
予想に反して、花井くんは首を捻りながら脱いだユニフォームを丁寧に畳んだ。花井くんはそういうところをきちんとする。表現がおかしいけれど、お母さんみたいだと思うときがある。
「三月二十五日」
抑揚のない声がして、皆が一斉に振り返った。九人分の視線を一気に浴びた阿部くんはそんなことなど気にせずに黙々とユニフォームを脱ぎ、アンダーの裾に手をかけた。
「何で阿部が知ってんの?」
すぐ側でアンダーのままケータイを打っていた水谷くんが聞く。全員が同じく持つ疑問だ。
聞かれた途端に、阿部くんの眉がぴくりと動いた。オレはその所作から、阿部くんがあまり答えたがってないことを察する。最近分かってきた阿部くんの表情のうちの一つで、「余計なことを言った」という感じの意味だと思う。オレが阿部くんの言葉にビビると、そんな顔をする。
「ちょっと前にそういう話しただけだよ」
これ以上の会話はないと言わんばかりにそのままアンダーを脱ごうと引っ張り上げる阿部くんの腕を押さえたのは、いつの間にか阿部くんの側まで飛んで行った上半身裸のままの田島くんだった。とんでもなく素早い。さすが田島くん。
「そういう話って何?」
にやにや、と笑う田島くんのそばかすの散った顔。目が爛々としていて、オレが言っていいのか分からないけど、小動物みたいだ。
一方阿部くんは心底嫌そうに顔をしかめた。オレはそれを見てどきりとする。これも最近分かってきた阿部くんの表情の一つで、オレが上手く口に出してものを言えないときにする。煩わしいという意思表示。今の顔がオレに対してでないことは充分分かっているけど、胸が騒いで首筋の汗を冷たく感じた。
「何って、誕生日の話に決まってんだろ。春休み中だから忘れられることが多いとか、そんなこと言ってた」
面倒臭そうに阿部くんが答える。面倒と言うよりは、話したくない、という雰囲気が伝わった。榛名さんの話を聞いたときにも同じような声音をしていた。
けれど、田島くんは構うことなく何だか嬉しそうな楽しそうな、つまりはいつも通りの声で質問を重ねる。
「それでそれで? 何で誕生日? しのーかが誕生日聞いてきたの?」
「こないだが、」
阿部くんが息を抜くような声で言った。
「オレの誕生日だったから、そういう話んなっただけだよ」
それ以上の質問は許さないと言うように、阿部くんは田島くんの手を軽く払ってアンダーを脱ぎにかかった。黒い衣服が阿部くんの頭を包み込み、オレからは痣の痕のようなものが薄っすらと見えるごつごつとした背中が覗けた。その背中全体から、これ以上の干渉を硬く拒絶する匂いが漂ってきて、オレは全力で目を逸らす。田島くんはとっくのとうに阿部くんから離れて元の場所に戻り、「腹減ったー!」と大声で叫んで花井くんに窘められていた。
そういう話。誕生日。オレの中でぐるぐると言葉が巡る。
こないだが阿部くんの誕生日だったなんて、オレは知らなかった。阿部くんはそういう話を自分からはしない人だから。
オレの知らなかった阿部くんの誕生日に、阿部くんと篠岡さんは、一体どんな話をしたのだろう。阿部くんと篠岡さんが野球以外の話題に触れるときというものが想像できなくて、オレは首を傾げる。分からない、分からない、知りたい。
ただ一つ、直感的にオレは悟っていた。
阿部くんが自分の誕生日に篠岡さんと誕生日の話をした。
それは、つまり。
――篠岡さんは、阿部くんに「誕生日オメデトオ」を言ったのだ。
かれこれ半年以上前の聞いた声は、未だに鮮明に蘇る。これを知っているのは自分だけ、この記憶は自分だけのもの。篠岡さんにオレが何となく抱いている気持ちは通じるあてもなかったから、そうやって一人で満足をしてやり過ごしていた。
けれど、オレだけの声をオレ以外の人が――阿部くんが、知ってしまった。
そうではないかもしれないのに、オレは可能性を全く否定できなかった。場所も時も違えど、篠岡さんは阿部くんにあの光が零れるような眩しい声で祝福を言ったに違いないと確信さえした。
阿部くんは何と答えたのだろうか。オレは阿部くんと誕生日の話なんてしたことがないから、予想もつかない。どんな声で、どんな顔で、どんなことを話したのか。それらが酷く気になって仕方ない。
オレの知らない阿部くんの顔が恨めしい。オレの知らない阿部くんの顔を見た篠岡さんが羨ましい。
オレしか知らない筈の声を聞くことのできた阿部くんが羨ましい。オレだけの筈の言葉を阿部くんにも与えた篠岡さんが恨めしい。


結局名簿表なんていう便利なものは持ってなかったから、辞書を引っ張り出して「し」の項目をぺらぺらめくる。すぐに「篠」という字は見つかって、オレは辞書に顔を近づけて線の一本でも間違えがないように、ゆっくりとペンを滑らせる。
あれは冬休みに入る直前だったから、もう三ヶ月くらい経つ。けれど、阿部くんの素っ気ない声も、篠岡さんの声と同様にオレの中で今もきちんと蘇る。忘れっぽいオレが、具体的な日にちを忘れなかったのだ。相当なことだと思う。
あれから、オレは篠岡さんと阿部くんとを注意深く見るようになった。注意深くと言ってもオレの注意深くだから、見落としている点は幾らでもあるだろうけど。無意識に見るようになって、オレは初めて篠岡さんと阿部くんが思ったよりもわりと頻繁に会話をすることに気付いた。
会話の内容は専ら野球のことばかりだったけど、野球のことだけではなくて別の話もちゃんとする。高校生っぽくテストが難しいとかあの先生は嫌いとか、そういう話も頻繁にしている。二人が野球部関連の話をしている場面ばかりに合っていたオレとしては、新発見とも言えた。
阿部くんは篠岡さんと話すときもオレと話すときとは変わらない口調だったけど、オレは篠岡さんと自分との差を何となく見出した。
阿部くんと篠岡さんはちゃんと会話が続いて、阿部くんとオレは会話がちゃんと続かない。
情けなさに頭を抱えながら、オレはやっと「篠岡さんへ」まで書いた。こんなに力んで書くのは初めてだ。ペンを持つ手が汗に濡れて気持ち悪い。
阿部くんと篠岡さんの会話は、言葉のキャッチボールがきれいだ。多分、共通の話題が揃っているからだろう。野球のことだけじゃなくて、組が一緒だとかそういうのもある。夏のあくる日には二人が同じ中学校出身だということも知った。他にもまだまだたくさん、二人の共通点は探せば探すほど見つかる。
けれど、そんなことより何より、あの二人は息の波長が合うのだ。
「誕生日、」
書くものを呟きながら、握り慣れないペンの柄を握り直した。可愛い色のペンを探してなかったから、授業中に使っている濃い色の蛍光ペンだ。何だか握り方があまり良くなくて、オレは同じように何度も握り直した。だが、一瞬でも緩めた気はなかなか引き締まらず、仕方なくオレはペンを置いて溜息をつく。
窓の外からちちち、と鳥の声が届いた。オレの家は何故か木に囲まれているから、鳥が家の周りにたくさんいて、朝は凄くうるさい。中途半端に開かれたカーテンの裾からの木漏れ日を受け止めながら、オレはしみじみと春の訪れを感じる。春と言ってもまだ凄く寒いのだけど。
十六年前の三月二十五日、きっと今日のように日は暖かいのに寒い日。
篠岡さんが、生まれた。


卒業式の後に七組に寄って渡すつもりだった。卒業式は二十日で誕生日は春休みに入ってしまう。休み中にプレゼントを渡すためだけに篠岡さんを訪ねるなんて、絶対オレにはできない。尤も七組まで行って篠岡さんに渡すという時点で、驚きの英断ではあるのだけれど。
校長先生のよく分からない長い話を聞き流して、何度も立ったり座ったりを繰り返した末に、やっと卒業式も終わってクラスに戻った。高三の知り合いの人もおらず、感慨も湧かなかった。号泣している見知らぬ上級生を横目に、オレ達一年生はぞろぞろと教室に戻った。
連絡事項も特になく、すぐに解散になる。解散の挨拶で担任教師の頭が上がらないうちから、田島くんがオレの肩に手を掛けて話し掛けてきた。話題は色々で、オレはオレなりの伝え方をすれば、田島くんは全部理解してくれる。
「三橋! コンビニ寄って帰ろうぜ!」
教師がまだ残っている教室で堂々と大声で宣言するものだから、慌てて側にいた泉くんが田島くんの口を押さえた。泉くんは田島くんのストッパーをよくしている。
「何だよ泉ー、あ、お前も来るよな?」
能天気な田島くんは先生なんて気にしない。
「まだ先生いるだろ」
泉くんが田島くんを尚も押さえ込みつつ、耳元に乱暴に囁く。それから「まあオレも行くけど」と返事をして、オレの方を向いた。阿部くんみたいに少し垂れた目が、オレの目と合う。
「三橋、お前もすぐ帰るだろ? 卒業生に知り合いもいないし」
「うー、あ、え、え、えーと、な、なくみに、」
七組に、ちょっと寄る。その一言も上手く言えずに、オレは身振りで何となく七組の方向を指す。すかさず泉くんに抱えられたままの田島くんの目がぐりぐりと動いた。
「お、三橋、七組寄るの? 阿部に何か用? すぐ終わるのか?」
阿部くんじゃないけど、オレは勢いで頷く。篠岡さんに用事、なんて言えない。
「じゃ、オレら待ってるからすぐ行ってこいよ」
答えたのは泉くんで、やっとのことで田島くんを離した。頷いてしまった以上、オレはいよいよ後に引けなくて、鞄を引っ掴む。解放された田島くんが、何となく怪訝な顔つきをした。多分、さっきのオレの肯定が嘘だって分かったのだろう。田島くんは凄い。
でも、そこを追求されてはいけない。篠岡さんに用があるなんて、絶対教えられない。たとえその人が一番オレの言うことを分かってくれる田島くんだとしても。
オレは懐疑の視線から逃げるようにドアから出る。七組は一クラス分しか離れていないから、慌てて歩めばすぐに着いた。既に解散になっているらしく、教室からは生徒が騒がしく喋りながら次々に出て来ていた。
オレは人の間を掻い潜ってドアに辿り着き、そっと中を覗いて篠岡さんの席を探す。手を鞄に突っ込んで、小粒がたくさん詰められたビニール袋を指先に感じ取る。いつでも差し出せるように準備して、篠岡さんの席を見つけた。
丁度阿部くんがいて、篠岡さんと話していた。
心臓が跳ね上がる。出て行く生徒がドアの前で固まっているオレをちらちら見る。オレの足は廊下に縫い付けられ、目線もやはり同じように二人に縫い付けられた。
阿部くんは笑っていた。何か面白いことを言ったのか言われたのか、篠岡さんも心なしか頬に赤みが差して肩を震わせながら笑っていた。
オレは阿部くんの顔を凝視した。この一年近くで、オレは随分と阿部くんのことを知った。信頼できるから、出来る限り阿部くんについていった。阿部くんのことであれば野球部の皆よりも少しばかりよく知っているとさえ思っていた。特に表情の変化とその表情が意味する阿部くんの心境には敏感だったから、微細な変化もすぐに悟ることができた。
そう思い込んでいたのに、篠岡さんを見つめる阿部くんの顔は、今までの記憶を洗い浚い探してもどこにも見つからなかった。目尻に漂う慈しみ、口角に滲む優しさ。普段見ることなどできないような阿部くんを、篠岡さんは目の前にしている。
阿部くんはしょっちゅうオレの心配をしてオレの世話を焼いてオレのことばかりしてくれているけど、この手の穏やかな感情が向けられたことは、一度だってなかったのだ。
また、篠岡さんの表情はこの角度だとよくは窺えないけれど、やっぱり阿部くんに向けている笑顔も普段の弾ける向日葵のような明るさとは違って、柔らかで匂やかな雰囲気をまとっていた。
ああ、と悟る。オレはあの世界に入れない。
指先に力が篭もって飴玉の袋を握り締め、鞄の中からオレの心が潰れるくしゃりという音がした。










篠岡って字が書けない三橋を書きたくて生まれた話でした。かく言う私も書こうとして書けなかった(笑
阿部を語るに至って、三橋というテーマは必要不可欠だと思います。
三橋はどこに行っても報われない気がする(酷

08/01/25