癖のついた茶色い毛先に違和を感じ取り、感じてしまったことに対して、阿部隆也は密かに羞恥を抱いた。 気づいてほしい、でも知られたくない 長期休暇明けの登校日の教室にはやけに生温く緩んだ空気が漂う。各々が固まって喋ったり参考書を広げていたり、行なわれていることは普段と一つも変わりないのだが、昨日まで長い間学校がなかったという事実だけで、度数の合わない眼鏡で覗いたように緩やかに歪んで見えるのだ。 阿部自身、家を出る前から珍しく身体にどうしようもないだるさを感じていた。正月ボケとでも言うのか。こんなことで野球部に支障が出てしまってはいけない。始業式である今日は朝練もその他もなく普通の時間に登校しているわけだが、それにしても身体のリズムの崩れようには我ながら驚きつつあった。 とりあえず席に着いてぼうっとしていると、早速周りに花井や水谷が集まってきた。何やかやで野球部でつるむのが一番互いの意思疎通がスムーズでやりやすいため、教室でも常に周りにはこの二人がいるような気がする。休み中に何をした、年賀状を誰に書いた、と当たり障りのない会話を交わしつつ、阿部の目は緩慢に開かれた扉から入ってくる茶色い髪を自然と見咎めていた。 相変わらずの澄み切った声で久方ぶりの挨拶を他の女子と交わす篠岡千代は、特に髪型が変わっているわけではなかった。冬の間は首筋が寒いと言ってあまり結んでいない髪は、始めて出会って名前と顔を認識したその頃から比べれば、幾分か伸びているように見える。特徴的な癖を本人は気にしていたが、それはそれで篠岡千代という少女を可愛らしく仕立てているように阿部は思う。尤も可愛いだとかそんなことを彼女に言ったこともなければ言おうとも思わないが。 最後に会ったときと変わらない筈の髪が何か違うような気がしてならなかった。絶妙な角度をこちらに向ける篠岡の髪の毛のシルエットが、過去に同じ角度から見たそのシルエットと微妙にずれているような気がしてならないのだ。 誰も指摘しないその微妙なずれに自分が気付けるのは――いつも見ているから。 その事実に直面するたびに、阿部はどうしようもなく舌打ちをしたくなる。気になる女子に目が行くなんて、何と分かり易いことか。ましてやその相手が西浦高校野球部マネジの篠岡千代だなどとは。 いつも優しい笑顔でマネジ仕事に励んでいる姿に惚れたのか、疲れ果てた練習の後に差し出される握り飯の味に心惹かれたのか、緻密な分析データを面倒がることもなく作るその姿勢に胸を打たれたのか。どのような理由にしろ、野球部員がその部のマネジに惚れるというその分かり易すぎる図式に一種の腹立たしさを阿部は抱え込み、しかし正直な心は密やかで無遠慮な目線をさり気なく篠岡に向け続ける。 そうして篠岡の後姿を見るのが習慣になり、目の端に移る残像は鮮明に心の中に焼きつき、少しでも様子が違った日にはそうと気付けるまでになっていた。間違っても誉められることでないのは、自分でも分かっている。 一体何人が自分と同じ悩みを抱え込んでいるだろうか。多感な高校生ばかり集まって、勘違いだとしても篠岡を好きになってしまう奴が他に何人いるだろうか。否、そんな馬鹿は自分だけかもしれない。 不確定な倍率の中で、阿部は疾しさを山ほど腹に溜めて篠岡に目線を送る。篠岡が気付くことはない。まるでストーカーだと、この頃自嘲気味に思うようにさえなってきた。 心中のもやもやは一切顔に出すことなく花井や水谷がつっかけてくる質問に適当に答えているうちに、篠岡はこちらに向かって歩いてきた。外の寒さの中を歩いてきたせいか、滑らかな頬は少し赤らんで上気していた。相変わらず、頬にかかるその茶色い髪にも違和を抱いた。 「おはよう、久しぶりだね!」 いつもの明るく発音のきれいな声で篠岡は挨拶をする。それを見て花井は篠岡に振り向いて「おー、おはよう」と少し笑い、水谷は優男の笑顔をさらに締まりなくしたような笑みを浮かべながら、「しのーか、おはよー。元気だった?」と返した。阿部は二人よりも随分と味気なく「おう」と一言だけ口元から漏らす。 篠岡は休みを経ても何も変わらない三人に満足そうに目をやって、華やかに話し出す。内容が主に野球のことなのは最早恒例とも言えて、適当に受け応えをしつつ阿部はまたぼんやりと篠岡の髪の毛に目をやった。 近づいてきた今、篠岡の髪型が微々たるものでありながら変化していることに確信を抱いた。だがしかし、気付いたところで何だと言うのだ。毎日髪型が変わるような数奇な女子も大勢いるし、今日たまたま篠岡は髪の毛をよく梳かさなかっただけかもしれない。 水谷が変なことを言って、花井が突っ込む。篠岡がきらきらと笑って水谷に何か言う。水谷がむくれながら何かを言い返して、また笑いが起こる。 会話が、途切れる。 無意識はその隙を狙って、阿部の口を動かした。 「なあ、篠岡、」 思ったよりも滑らかに言葉が出る。 「髪、切った?」 さて、真相はどうだ。阿部は心なしか高まる心音を必死に鎮めながら、何食わぬ顔つきを作った。 阿部の方へと向き直った篠岡の目が、みるみるうちに丸くなる。口元はぽかんと開いて、次の瞬間机に手を突いて阿部の顔を覗きこんできた。 「よく気付いたね! 絶対誰にも気付かれないと思ってたのに!」 無防備な顔の近さが心臓に悪い。 「いや、何か微妙に違うって思って、」 篠岡の勢いに気圧されつつ阿部がぼそぼそと言うと、今度は隣から水谷が口出しをしてきた。 「うーん、言われてみれば違う気もするけど……、毛先ちょっと整えたの?」 「そうそう。でもさあ、あんまり今と変えて欲しくなかったから、そう頼んだら美容師さん手でも抜いたのか全然変わらなくてさ! びっくりしちゃったよー」 言いつつ、篠岡が阿部に向けて傾げていた身体を起こして、髪の毛の先を軽く摘んだ。花井が少し屈んで篠岡を覗き込みながら、そっと溜息をつく。 「よく気付いたなー、阿部。オレ、全然分かんねえ。お前こういうのは疎そうに見えるけど」 「何となく思っただけだよ」 意味もなく弁解するように答えてしまう。どことなく居心地の悪さを感じながら、阿部は目元を細めて笑う篠岡の顔を、斜め下という絶妙の角度から見上げた。 いい加減もやもやとした気持ちを抱えるのは辛いから気付いてほしい。 でも、だからと言って不毛な目線を送り続けていることは知られたくない。 何で、気付かれたのだろう。 水谷に向けて誤魔化すように笑いながら、篠岡千代は斜め下からの視線を受け、何となく避けるように顔を傾げる。阿部の目はいつも真摯で鋭く、真正面から受け止める勇気はなかなか起こらなかった。 髪の毛を切ったのは本当だ。だが、先をちょっとだけ切って変化がないように、と珍しい注文をつけたのは千代自身であり、結果の今の髪型には美容師の不備は何一つなく、咄嗟の誤魔化しの言葉に含んだ驚きも抱かなかった。 ちょっとしたいたすらだったのだ。 誰が最初に気付くだろう。あるいは誰も気付かないか。毎日鏡で自分の顔を覗きこんでいる自分でさえ、美容院に行く前と後での変化をすぐには見つけられない。 誰も気付かなかったら、友人辺りに暴露してせいぜい「変わらないね」と驚かれればよし、気付かれたら気付かれたで、よく気付いたねと驚けばよし。 千代の誤算は、まさか一番騙したくて、一番気付く可能性が低くて、一番気付いてくれたら嬉しい人に気付かれたときのことを考えていなかったことである。 始業のベルが鳴った。そこで我に返り、三人に適当な別れを告げて自分の席に行く。そういえば、自分の席にも行かずに立ち話をしていたから、コートも脱がず鞄さえも置いてなかった。 マフラーをほどいて畳み、廊下に出てコート掛けに脱いだコートを引っ掛けながら、千代は再び思考に没する。 何で、気付いたのだろう。 阿部隆也という人間は花井がいみじくも言った通り他人の細かい変化などに疎い人間である。それはもうすぐ一年近くになる付き合いの中で充分に分かっている。阿部が気付いてくれたらという期待は、絶対に気付かれないという確信に完全に押し潰されていた。 冷えた手の平をすり合わせながら教室に戻り、さり気なく阿部の席に目をやった。 冷たく鋭く、そしてどこかだるそうに見える瞳。 阿部の目線と投げかけた自分の目線が絡み合った、ような気がした。 自然と鼓動が高鳴る。阿部の目は千代ではない別の場所を見ている筈なのに、目をやったその瞬間は確かに阿部がこちらを見ていた気がした。まるで、千代がこちらを見たのを避けるように、ふいと目線を外された。 向こうが知らない振りをしたのなら、こちらもそれに合わせなければいけない。何も気付かない振りをして「さむさむ」と呟きながら、席に着く。丁度良く担任の教師がずかずかと教室に入り、散り散りになっていたクラスメイトが自分の席に戻った。教師の野太い声が新年の挨拶をし、生徒はばらばらに立ち上がって号令に合わせて礼をする。 そっと、阿部を覗き見た。今度は紛れもなく別の場所を見ていた。 少しの間離れて、しかし彼は変わらずここにいる。 ふう、と密やかな溜息で目の前の空気を温めて、千代はクラスメイトに合わせて再び着席した。教師の始業式の段取りの説明を聞き流しながら、刹那に絡み合った目線を再び胸に思い描く。 微妙な変化。狙ったいたずら。気付かれないと思っていたし、確かに気付いてほしいとは願った。 けれども、胸に抱える恋と呼ぶにはまだ早い小さなわだかまりだけは、知られたくないとも思った。 暖房が効いてきた温い空気を隔てた向こうに、気になるその人はいる。 気付いてほしいと願うのに、知られたくないともがき続ける。 |